摂食障害の原因はトラウマにある?耐え難い苦痛を軽減する身体の自己破壊

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『トラウマによる解離からの回復 断片化された「わたしたち」を癒す』 国書刊行会には摂食障害にまつわる記述がある。

第7章の「自殺願望、自己破壊、摂食障碍、嗜癖のパーツに働きかける」がその部分。

そこから摂食障害の原因に迫る部分を引用し、個人的なトラウマや嗜癖を絡めて考察してみよう。

生き延びる資源が身体しかない

トラウマ体験を生き延びるとは、日常生活の通常の課題をこなし、トラウマの原因となる環境での異常な課題と両方に対処しながら、毎日を何も起きていないかのように過ごすことなのです。個人の安全に対する信念は妥協させられ、生きる決意も挫かれていきます。生活は無力、圧倒、不適切感、脆弱、恐怖、そして孤独に満ち、拠り所はなく、隠れる所もなく、助けてくれる人もいません。そうなると唯一の資源は身体に由来するものになります。

『トラウマによる解離からの回復 断片化された「わたしたち」を癒す』ジェニーナ・フィッシャー著 浅井咲子訳 国書刊行会 P146

「孤独に満ち…」の辺りは体感もそんな感じで、「助けてくれる人もいない」という心理が大きいと思う。

近しい人も助けてくれず、闘うか逃げるかもできない状況であれば、あとはもうひたすら耐え続け、感情を噛み殺すしかない。

そして「トラウマの原因となる環境・異常な課題」を解決しないといけないわけで、それなのに誰も助けてくれず、ストレス反応でも対処できない…。この絶望感。

自己破壊は耐え難い感情・痛みの軽減?

危険性の高い行動を理解する上で誤りがちなのは、自傷、自殺企図、摂食障碍および薬物乱用が、本来の目的である苦痛の軽減ではなく、破壊が目的だと提えてしまうことです。[略] どちらも自己破壊行動の核心である耐え難い感情の軽減とその統制が見落とされています。

身体を傷つけ、飢えさせ、その消滅を計画し、嗜癖的行動に強迫的になるのは、身体的および感情的な痛みを軽減するためです。

『トラウマによる解離からの回復 断片化された「わたしたち」を癒す』ジェニーナ・フィッシャー著 浅井咲子訳 国書刊行会 P149

自分が呪縛的に無理をする理由が分からなかったし、別の捉え直しでも釈然としない部分があったけど、個人的にはこれが原因と本質で問題ないと思う。

自己破壊や嗜癖的行動の目的は、耐え難い感情の軽減と統制による…。

不安を和らげないと耐えられない

自分の場合、入院の経験による体調不良のトラウマがあり、不調に陥ると入院がよぎってしまう。それで不安によって神経は高ぶるけれど、その感情を鎮める方法は身につけられていない。

ひたすら無理をして食べてしまうのは、その感情を和らげる意味があったのだと思う。

体調不良による入院が怖いなら、体調を上げるしかなかった。であれば食べるしかない。ディスペプシアの食後愁訴があるのにだ。

呪縛のように無理して食べ続けた

自分はディスペプシアの食後愁訴による体重減があるため、体重を増やさないと問題は解決しない。

でも、その増やし方は分かっていなかったし、だれも有効な対処を教えてくれはしなかった。

それで頑張って食べるけども、そのせいでより胃の状態が悪くなり、かえって水を飲むのもきつくなったりした。そのせいで入院を重ねた皮肉。

自分は狂っているとさえ思った

自分は頭がおかしいのだと思っていたし、いつまでも変わらないとすら思っていた。

入院のトラウマの再現を怖がっていたけれど、その感情を収める方法は分からなかった。

胃の症状を抑えるには何も食べなければいいけれど、元の体調が酷いし、不安を和らげないとやり過ごせなかった。

身体の美醜の感覚は摂食障害の本質?

摂食障碍は、これまで身体イメージや自己感覚の歪みに起因するものとされてきましたが、それがトラウマ的体験による過度の覚醒状態を軽減させていることはあまり言及されてきませんでした。 摂食障碍では、苦痛の緩和は拒食または過食により行われます。

『トラウマによる解離からの回復 断片化された「わたしたち」を癒す』ジェニーナ・フィッシャー著 浅井咲子訳 国書刊行会 P151

医学のマニュアルは摂食障害の原因をそう捉えているだろうけど、自分は身体のイメージや感覚が狂っていることはないと思う。

BMIは標準から下回っているけれど、「これが理想で美しい」と思ったことはないし、もっと筋骨隆々になりたいと思っているくらい。

「体型トラウマ」はあるかもしれない

ただ、思春期などで身体の美醜にまつわるトラウマを体験した場合、それが上述の「耐え難い感情」になるんじゃないか。その点で体型にまつわる原因もありそう。

標準的な体重であるにも関わらず、それを「醜い」とか「酷い見た目だ」と罵られたら、それもまたトラウマになりうる。

そうなると普通の食事が怖くなったり、標準の体重で戻ることが嫌になるんじゃないか。

元の体重に戻りたくない恐怖?

過去のトラウマの再現が怖くなれば、一般的な食事や体重に対するイメージが変わりうる。

「元の体重に戻ればまた暴言を吐かれるかもしれない」という感情が巻き起こり、それを軽減するのに過食・拒食したりするのはありそう。

するとそれが歪んだ身体イメージや自己感覚になるんじゃないか。もう二度とその体重に戻らまいとして、拒食や過食になる可能性がある。

ドクターへ「食べられない・食べなきゃ」を訴えた

自分はかなり前に「摂食障害」と診断され、それはずっと誤りだと思っていたけど、今は本質的に間違ってはいないと思う。

ただ、上述の一般的な摂食障害の原因で理解されるのは不服。それに関しては誤りだと主張したい。

ディスペプシアの食後愁訴と食べすぎの二重苦

何故その診断になったかといえば、ドクターに「食べなきゃ」「全然食べられない」という強迫的と取れる表現ばかりしていたからだと思う。

でも、それはディスペプシアの食後愁訴がありながら無理をしていたわけで、美醜にこだわっていたのではない。

ただ、本質的な原因からすれば正しさはあるし、それを置いておけば摂食障害の診断名は嫌ではない。

過食は生き続ける術?

以前に少し摂食障害の当事者のブログを読んだけど、「過食して嘔吐するのでやり過ごしてきた」というような記述があった。

自分は嘔吐することはないけれど、そういう人たちは体感で過食の意味を理解してたりしないか。

嘔吐をすれば一気に楽になる?

嘔吐するまではかなりの苦痛があるはずで、そこまでは自分も解る。

そこから嘔吐したとしても、あれほどきつかったのが嘘のように楽になり、感覚が麻痺したかのような、かえって気持ち良さすら味わえる…。

それが耐えがたい感情の軽減だと思う。そこで何らかの神経伝達物質か生理活性物質が分泌されるだろうし、拒食の場合はケトン体が増えて活力や幸福感が得られるそう(『トラウマによる解離からの回復』151P)。

嗜癖的行為も苦痛を耐えるのに必要?

上述の引用の部分に「嗜癖的」という言葉があるけれど、その本質は摂食障害と変わらないんじゃないか。

嗜癖(アディクション) – 有害な結果にもかかわらず、報酬刺激に対しての強迫的関与を特徴とする脳障害。1950年代に世界保健機関WHOにより依存症のような意味で定義されたが、異なる意味である乱用の意味でも用いられるため、WHOの専門用語から除外した。2013年のDSM-5において大分類名に登場し、その下位にDSM-IVの依存症と乱用が統合された物質使用障害がある

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%97%9C%E7%99%96

意味としては「有害な結果が分かっていたとしても、自ら報酬に逆らうことができない」というものか。やること自体は避けたくとも、報酬を得たくてやってしまう…。

摂食障害は「したくなくても過食・拒食してしまう」というものだろうけど、「耐え難い感情の軽減」が本質であれば、根本では似通うものがあるんじゃないか。

「物質嗜癖」には酒、たばこ、精神薬、行動にはパチンコやギャンブルなど身近なものがある。

辛い人生・世の中をやり過ごす自己破壊

個人的には身近なものにも嗜癖があると思う。どか食い、ゲーム依存、ランニング、過剰な筋肉トレーニングなど、本質的に「耐え難い感情の軽減」しているものはたくさんあるんじゃないか。

Twitterでも似たようなツイートを見かけた。

ランニングに関してはNHKの記事でも似たような記述があった。

ランニングがやめられない!|NHK
趣味として続けているランニング。年々走る距離が増え、いつしか毎日走らならいと気が済まなくなってしまった筆者。自分の症状を調べてみると、1つのことばに行き着いた。それが、「ランニング依存」だっ

そして、ランニング依存を引き起こす背景には2つの要因が考えられるといいます。

1つは運動によって多幸感が生み出されるカテコールアミン(ドーパミン、ノルアドレナリン、アドレナリンといった神経伝達物質の総称)が増えたり、βエンドルフィンが分泌されたりすることで、依存へとつながっていく可能性があること。

もう一つは、運動ができないとネガティブな気持ちになって離脱症状が起きてしまうため、その気持ちを抑えるために運動をやめることができなくなることです。

https://www3.nhk.or.jp/news/special/sci_cul/2022/06/special/story_220625/

「唯一の資源」というのは恐らくこういうことで、身体を痛めつけることにより、脳内から物質が分泌される。それが耐え難い感情を軽減するのだと思う。

こういったことは健康な人の日常にも潜んでいると思う。むしゃくしゃしても解決策がない場合、自分の身体しか利用できる資源がないわけだ。

破壊が目的ではない

そう考えれば、たとえその行為をしたくないと思っていても、「それで日常をやりすごしているんだ」と理解するだけで楽になったりする。

ただ身体を傷つけたいわけではなく、それによって懸命に生きているということ。「破壊を目的にしている」と捉えるとより事態は悪化するんじゃないか。

傷跡を責めないようにしよう

そういえば、入院したときに担当してくれた看護師の一人に、腕が傷跡のように荒れていた人がいた。

いま思えばその人も色んなことがあったんだと思う。下手なことは言わなかったけれど、今なら理解できるかもしれない。その人も頑張っていたんだ。

愛着関係が摂食障害に関わっている?

児童虐待やネグレクト、拷問、DV、その他多くのトラウマには、ある共通点があります。それは被虐待者の身体、心、感情が他人によって操作され、 搾取されることです。[略] こうして通常の調整が提供される経験 (すなわち、安定した愛着による鎮静化) を奪われてきた子どもたちが大人になると、過覚醒を何とかしようとしたり、 衝動を行動化するために身体を利用するようになるのは当然なのです。

『トラウマによる解離からの回復 断片化された「わたしたち」を癒す』ジェニーナ・フィッシャー著 浅井咲子訳 国書刊行会 P150

「通常の調整が提供される経験=安定した愛着による鎮静化」があれば、耐え難い経験をすることもなかったろうし、またのちに耐えがたい感情に襲われることもない…。

自分は愛着関係については悪くなかったし、それには感謝しないといけないけど、入院の経験が痛手となったのは事実。その入院・体調不良・やせぎすの体型によるトラウマは拭えない。

愛着関係が良かったとしても…

両親を責める気はないし、自分が敏感すぎたのはある。でも、「衰弱して死なないように強引に入院させよう」というのは荒療治すぎたか。

それに対して自分は困惑し、衝撃で打ちのめされたのは仕方ない。これが上述した引用部分の「孤独に満ち、拠り所はなく、隠れる所もなく、助けてくれる人もいない」という状況だろう。

そして不安という苦痛を軽減するには身体しか資源がなくなった。だからきつくても食べるしかなかった。

誰も助けてくれなかった原体験と自己調整

ストレスを感じるとほとんどの子どもはなだめられ、安心を得られ、快適になれるような他人、好ましい大人とのつながりを求めます。しかし、ネグレクト経験すると、つながりを求めずに回避し、自分の資源だけに頼ることをすぐに習得します。[略] あるクラ イアントは、麻痺するために薬物とアルコールを使うことを十代で学びました。思春期初期の段階で、 自分を飢えさせるか過食嘔吐することが、自分を沈静化させ、「無感覚にさせてくれる」ことを学ぶ者もいます。 その他にも、刺したり、切ったり、引っ掻いたり、火傷したり、叩いたり、殴ったり、頭を打ち付けたり、 流血したりなど、 様々な自傷行為によって苦痛を和らげようと試みま す。

『トラウマによる解離からの回復 断片化された「わたしたち」を癒す』ジェニーナ・フィッシャー著 浅井咲子訳 国書刊行会 P150~151

自分は何も知らず「入院」と告げられ、半ば裏切られたような、退路を断たれたような感覚になった。その怖さといったらどんなものか。

そこからよく分からない場所に一か月半はいたし、そのきっかけになった体調不良や体型は耐え難い感情を生むものになった。それがこの自分の原体験。

それがなかったら一人で吐気に苦しむことも減っただろうし、何の因果でこうなったかと思う。身体の治療は必要だったとはいえ、もっと手段はなかったのか。

傷ついた自尊心を守り抜く闘い

ここまでをまとめると、まず摂食障害は「耐えがたい感情を軽減するもの」である可能性があり、嗜癖的行為もその一部であるかもしれない。

そしてそこにトラウマがあったりして、それで体型についてのイメージが歪んだり、トラウマを恐れる感情を軽減しようと過食・拒食に至る可能性がある。

トラウマ体験の環境は過ぎ去っている

でも、それはトラウマの再現を恐れるものであって、今この環境が安全である可能性もある。

「自分の不安の感情それ自体が恐れの正体にすり替わる」ということもあるんじゃないか。つまり、今の自分が生み出した感情を軽減するための行為でもある。

それが自分の「あの入院体験を繰り返したくない」だったり、「二度と体型にまつわる恥辱を受けたくない」という感情になるけれど、それを鎮める理性の力がまだない。

若い頃に傷ついて不器用に闘っているだけ

とにもかくにも、みんな可哀そうな経験をしていて、深く傷ついただけ。そこから不器用に生きて闘っているまで。

でも、その闘いをもう許してあげる方がいい。今も強い自尊心があって、そのお陰で生き延びてきたけれど、そのせいで辛くもある。闘いすぎればいつか本当に事切れるかもしれないから。

だから今の優しい人に助けてもらうこと。「もうトラウマが再燃する環境ではない」と芯から身体で体感し、強い感情が巻き起こるのを和らげる。

過分な自尊心の防衛を解く

自分のことで言うと、ひたすら入院に抗っていてばかりでは良くない。体調不良や病院のトラウマを解消しなければ、無理して食べ続けるのも収まらないし、脱水になれば命取りになりかねない。

そのためには病院や病院関係者に対する認識を変え、過度にそれを避けようとしないこと。要は「入院することだってあるし、病院のスタッフに酷いことをする人はいない」と理解すること。

そうすれば過度に病院を怖がることはなくなるだろうし、その感情を軽減させようと食べてしまうこともなくなるはず。

トラウマを恐れるイメージを変える

自分も体調不良からして体型のコンプレックスはあるだろうし、体型のトラウマがある場合も、その体型にまつわる自尊心の防衛を解けば変わるんじゃないか。

病院や体調不良にまつわるイメージを変えるように、「もう酷いことを言う人はいないし、少しは食べてもいい」と自分を許せた場合、耐え難い感情に押し潰されることは減りそう。

呪縛の原因が解るだけでも大きい

自分もディスペプシアの食後愁訴を悪化させない摂り方や、体重を増やす方法もそれなりに解ってきたのがあり、食べ過ぎて吐きかけるのはかなり減った。

まだ病院や体調不良に関するイメージは変わらなかったりするけど、自分が無理をしててしまう原因が解っただけでかなり楽になった。

最寄りの病院・点滴を頼ろう!

もしこれから脱水になりかけた場合、最寄りの公立病院で点滴すればいい。それでベッドで横になる屈辱が和らぐか分からないけど、それがなんとも思わなくなればいいんじゃないか。

病院や入院の恐怖がなくなれば無理は減るだろうし、そうなれば食後愁訴も和らぐはず。すると体重を増やしやすくなるだろうし、入院のリスクが減ればより無理をする必要もなくなる。



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